この人を見よー内村鑑三 その六 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」

『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第2巻目がこのタイトルとなっています。第一章の「異教」に始まり第十章の「キリスト教国の正味の印象」で終わっています。内村がこの章に記そうとしたのは、自分がいかにしてクリスチャンになったかということです。なぜなったかということではありません。「なぜ、なったか」というのは「回心の哲学」ということですが、これが本題ではないと言います。彼は自分自信を綿密な観察の対象としてきたとも述べます。そしてその観察は、神秘に充ちていることを発見します。

左は新渡戸稲造、右は内村鑑三

 内村は多くの日記を書いています。その日記を「航海日誌」と呼んでいます。自分という憐れな小舟が罪と涙と多くの悲哀とを通過して、上なる天を目指して進む、日ごとの進歩を記録していく、とも言うのです。もう一つの例えは、この日記は「生物学者の写生帳」とも呼んでいることです。一個の霊魂が稲から成長して熟した穀物になるまでの、発生学的成長に関する、形態学上と生理学上のあらゆる変化がここに書き留められているというのです。

 第一章の「異教」は内村の血統から始まります。内村家は代々高崎藩表用役をつとめ禄高は50石で儒教を信じていました。父親は中国聖賢の書物や言葉をほとんどそらんじていたほどです。「自分には聖賢の政治道徳的な教訓はよく理解できなかったが、しかし儒教のおおよその気分は深く心に染みこんでいった」と述懐しています。儒教の「孝は諸徳のもとなり」と教えるのですが、これは「主を恐れることは知識の始まりである」というソロモンの箴言(Proverbs)(1章7節)と似ているといいます。長上に対する服従と尊敬とを強く教え込む東洋思想に言及し、同輩や目下との関係にも触れます。すなわち交友における誠実、兄弟の融和、目下の者に対する寛容さを言うのです。こうした儒教の教訓は、多くの自称クリスチャンに授けられている教訓に比べて少しも劣るものではないと言います。しかし、当時の内村は、武士の家からの多くの欠点や迷信にとらえられていたことも告白しています。

 第二章の「キリスト教への入門」は、ある朝学友が内村を外人居留地への礼拝に誘ったことから始まります。そして日曜日ごとに、教会に通うのですが、当時の内村はこのような常習的行為のもたらす怖ろしい結果を知らなかったのです。自分に英語の手解きをしてくれる英国婦人は、内村の教会通いを喜んでくれるのです。彼にとっては教会通いは「物見遊山」だったのですが、、、。キリスト教は、それを信ぜよと迫られないうちは、内村にとって楽しいものでした。さらに教会の信者の示す親切は彼をいたく喜ばせたのです。小さい時から祖国を他のすべての国にまさって尊び、祖国の神々を拝して他国の神を拝してはならないと教えられてきた内村です。武家たる父親らから異国に興った宗教を信じるものは、祖国に対する反逆、国教に対する背教者となる、と信じ込まされていたのです。

 やがて札幌農学校に入学する内村らに対して、上級生らは下級生を回心させようと試みるのです。周りの同窓生は皆回心していきますが、内村は一人それに抗して「異教徒」として孤立します。学内の世論があまりに強く内村は、ついに「イエスを信じる者の誓約」に署名するのです。当時内村は16歳であり、「加入せよ」との上級生からの力に屈せざるを得なかったようです。こうして、内村のキリスト教への第一歩は自らの意志に反して強制された、言い換えれば、自分の良心に反したものだった、回想するのです。

アマースト大学時代の内村鑑三

 この誓約書はもともと英語で書かれていました。ウイリアム・クラークが書いたものだったのです。誓約書に署名したのは総数30名を超えていたといわれます。新しい信仰のもたらす益は、宇宙には唯一の神がいますのみであることを教えられたと述懐します。キリスト教的一神教が自分のすべての迷信を根本的に断ち切ったと言います。そして自分は「イエスを信じる者の誓約」に強制的に署名させられたことを悲しまなかったとさえ断言するのです。それほど誓約の内容は霊感的(inspiring)だったと回想します。

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